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コラム江戸

何といっても、富士は日本一の山。

『富岳三十六景 五百らかん寺さゞゐどう』葛飾北斎   出典 国立国会図書館貴重画データベース

富士山を人々はこよなく愛した。富士山を眺望することは、喜びであり、格好の行楽でもあった。老若男女、江戸の人々は富士山が大好きである。現代人も同じで、新幹線に乗ったときなどは、富士山が見えるか気になってしまうから不思議である。

この浮世絵は、五百羅漢寺(ごひゃくらかんじ)境内の栄螺堂(さざえどう)から富士山を眺めた構図。栄螺堂というのは、3階建ての建物の中に螺旋状の階段があるのでその名がある。最上階からは富士山を見渡せる。北斎は手前の江戸の町を捨象して富士山を描いた。武士や町人、旅人か行商のような人、子どもも描かれている。参拝後のご褒美ともいえる眺めだった。
当時、五百羅漢寺は現在の江東区本所にあったが、明治41年に目黒区下目黒に移転、今も羅漢像(現存305体)を拝観できる。

  • 『名所江戸百景 するかてふ』
    広重

江戸の町は、富士山との関わりが深い。広重の「するかてふ(駿河町)」は題名のようにテーマは町なのか、富士山なのか迷ってしまう。位置関係が気になるだろうが、駿河町の通りの向こう側に、大きさはともかく実際に富士山を望めたのである。
そのわけは、江戸の中心地日本橋の通り(南西方向に走る通り)は、正面に富士山が見えるように最初から計画され、町づくりがされていたからだ。粋な都市計画ではないか。駿河町という名前自体も、富士山が駿河国(静岡県)にあることから付けられている。
道の両側には大規模店舗の呉服店、三井越後屋。その客も富士山を眺めながら贅沢なショッピングを楽しめたと思う。

古来、日本の山岳は信仰の対象になることが多く、特に富士山は霊峰として日本人の崇敬する山だった。高く、大きく、美しい山からは、自然発生的に「富士信仰」が生まれたのではないだろうか。
「富士山本宮浅間大社」は、遥拝所(ようはいじょ/麓から富士山頂を仰ぎ見て参拝する場所)の山宮(やまみや)浅間神社から分祀され、大同元年(806)に創建された。時の天皇が坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に命じて造らせたと伝わる。
活火山である富士山は、延暦19~21年(800~802)に「延暦の大噴火」があり、これを鎮静化するために造営された。蝦夷征討で知られる坂上田村麻呂に託したのは、噴火に立ち向かえるほどの強い武将だったということだろう。
噴火を鎮めた富士山本宮浅間大社は、全国に約1300ある「浅間神社」の総本宮だ。祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)、桜の語源となったともいわれる神様である。富士山と桜、その組み合わせは両方とも日本の象徴としてめでたく、また縁起もよさそうで、なぜか納得してしまう。

富士信仰は朝廷をはじめ武家にも広がり、富士山本宮浅間大社は、源頼朝、北条義時、武田信玄、徳川家康などの武将からも、厚い崇敬を受けてきた歴史がある。関ヶ原の戦いに勝利した家康は、その御礼として、本殿・拝殿・楼門などを造営したばかりか、富士山の八合目以上を寄進している。時代の隔たりはあるが、坂上田村麻呂も徳川家康も征夷大将軍だった。

一方、一般庶民の間にも富士信仰は浸透していった。最も盛んになったのは江戸時代である。江戸初期には、富士信仰の行者「長谷川角行(はせがわかくぎょう)」が現れる。「富士講」の開祖といわれる人物だ。続いて角行の流れを汲む食行身禄(じきぎょうみろく)と称された「伊藤伊兵衛(いとういへい)」も出て、富士講は組織化され全国的に隆盛を極めた。参拝に行楽的要素も加わってブームを巻き起こし、人々は皆「富士詣で」に憧れた。この現象はどこか「お伊勢参り」に似ている気がする。

現代人にも受け継がれている富士山を敬愛する心は、これからも連綿と続いていくに違いない。多くの魅力を併せ持つ富士山、素晴らしい富士山を形容する言葉は今さら不要というものだろう。

文 江戸散策家/高橋達郎
参考文献『富士本宮浅間社御由緒』

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