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コラム江戸

政治の中心地、大御所(家康)の駿府城。

駿府城 巽櫓  城の東南角を守る隅櫓、右奥は東御門

駿府城は家康と関わりが深い。晩年の居城でもある。室町時代、駿河国は今川氏によって治められていた。駿府とは駿河国の国府(律令制における国の中心の役所)が置かれたことからそういう。

家康は7歳から18歳の間、今川義元の時代に人質として駿府で暮らしている。人質といっても、過酷な生活ではなかったようで、むしろ大切に扱われていたようだ。それは、義元の子である今川氏真との関係も良好であったことからも頷ける。
その後、駿府城を落とした武田氏が入ったが、家康は武田氏を追放し駿河国を領国とし、焦土化した町の復興や城の修築をして天正14年(1586)に浜松から駿府に入った。2回目の駿府城である。
しかし、天正18年(1890)の小田原役後、秀吉により関東に移封されたため駿府を去ることになった。3度目となる駿府城は、江戸幕府を開いた後に将軍職を息子の秀忠に譲り、慶長12年(1607)に入った隠居の時代である。この時の城は天下普請で拡張整備され、5層7階の天守を配置した壮大な城だった。

三たび家康は駿府に入ったのだ。駿府は東海道筋にあって、西にも東にもにらみが利く軍事・政治の要衝。二代将軍秀忠を江戸に置き、自分は駿府で──この二極政治で大御所(おおごしょ)として江戸創生期の難局を乗り切った。政治の実権を握り続けたのである。260余年持ちこたえた幕府の基は、万全の備えをした家康の才能にあったのかもしれない。まったく、隠居とは形ばかりである。

駿府城のあった場所は駿府城公園として整備され、市民の散策の場、静岡の代表的な観光スポットにもなった。当時の建造物は残っていないが、巽櫓(たつみやぐら)と東御門(ひがしごもん)は1989年に復元され、近年では坤櫓(ひつじさるやぐら)が2014年に復元された。いずれも伝統的な木造工法によるもので、城郭ファンを魅了する壮麗な建造物である。そのうちに、天守も復元してもらえるとうれしいのだが……。
公園内には大御所時代の銅像がある。鷹狩りを楽しんだ家康晩年の姿。他にも家康像はJR静岡駅の周りに二体(幼少の人質時代やその後の姿)あるので見ておきたい。


  • 徳川家康公之像

  • パワースポット?

本丸跡を歩くと、石を並べたストーンサークルに出あう。近くにいた人に聞けば、この中に入って願い事をするとその願いが叶うパワースポットだとか。天下を取った家康の城だからそんな気もしないではない。同様のサークルが本丸跡には計3つあるという。

駿府城で家康が亡くなったのが元和2年(1616)。大坂の陣に勝利した1年後、その波乱に満ちた人生の幕を閉じた(75歳)。遺言通りに遺体は駿河国の久能山(くのうざん)に埋葬された。

  • 久能山東照宮
    御社殿(国宝)

二代将軍秀忠が久能山東照宮を創建。翌年には日光東照宮に移遷、これも家康の遺言に沿ったものだ。なお、久能山の家康の廟所は御社殿の奥にあり、見事な石造りの宝塔(墓)である。

久能山東照宮は東照宮の創祀(そうし)で、いわば始まりだ。日光東照宮造営以降、諸国の大名は東照宮を幕府の許可を得てこぞって勧請していった。いったい幾つあるのかと調べたら、現在全国に百数十社ほどが知られているとのこと。家康ゆかりの地にはもちろん多いが、東京にも上野東照宮、芝東照宮など、著名な寺社がある。東照大権現(とうしょうだいごんげん)徳川家康が、どれだけ多くの人々の崇敬を集めてきたかが、東照宮の数からみても納得できる。

文・写真 江戸散策家/高橋達郎
参考文献『徳川家康公』全国東照宮連合会

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